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Posted by だてBLOG運営事務局 at

2011年04月20日

生存確認 4月13日

4月13日
この病院は本当に素晴らしい。スタッフの情報交換がしっかりされている様子。
つぶやき程度に漏らしたこともすべてのスタッフが共有していて、医師は言葉少ないが、無駄がなく的確なアドバイスをくれる。転院の紹介も親身になって相談を受けてもらえた。
ギプスが取れ、いよいよ装具に履き替える。この装具とても高額ならしい。
今まで治療代はすべて国のお世話になってきたが、この装具だけは病院ではなく、外部の専門の葬具屋さんに依頼するため一旦は全額自己負担となってしまう。

阪神大震災の場合は、その後、全額戻って来たそうだが、今回はどうなるだろう?
今回は鹿児島の姉の援助でなんとか支払うことができたが、すべてを流され、親類や頼る人が居ない人も中には居るだろうに。
IBCの小野寺や、永野、アパートの下の階に住んでいて、震災後盛岡の戻っていた井上もギリギリ間に合った。  


Posted by タンゴダンサー at 11:14Comments(0)松園第2病院

2011年04月20日

避難所申請 4月10日

4月10日
東京で翻訳業をしている鈴木元が、大船渡の実家に帰る途中で寄ってくれた。連絡の取れない俺の為にわざわざパソコンを持ってきてくた。昨年の夏に友人に勧められて始めたFACEBOOKから、すでに離れられない体になっていて、震災後もFACEBOOKを更新できないことが何よりも気がかりだった。

予想通り、多くの友人が安否を気遣ってくれていて、さらには、今まで何十年も連絡のなかった友人まで心配して探してくれていた。そのそれぞれに、「心配有難う。生きている。」とだけ簡単に連絡を返した。

意外だったのは、大船渡病院に居た時に受けた『オーストラリア新聞』と『ECONOMIST』のインタヴュー。こんなの受けても見る人居ないよなー、と思いながらも、暇つぶしと気分転換のつもりで受けたのだが、これが意外や意外。結構見ている人多かったね。特に震災発生直後の段階の生存確認はこれによって広まったところが大きい。あとでインタヴュアーのお礼を言っとかなきゃ。


そろそろ退院後のことも考えなければならず、のっこは一人で盛岡市役所に申請に行った。第1希望は四季亭、第2希望は長栄館、第3希望が愛真館といった感じ。単にお風呂の好みで選んだ。  


Posted by タンゴダンサー at 10:20Comments(0)松園第2病院

2011年04月20日

新しい街づくり 3月28日

3月28日
高校時代3年間を過ごした盛岡の街は友人も多く、ガソリンの供給もほぼ復旧したことから、毎日見舞いが来るようになった。
中でも同郷で花巻温泉に勤める松田はスタンスが軽く、必要なものはないかと何度も訪ねてくれる。
これを機に地元に戻って新しい街づくりに貢献したいというから、是非やるがいいと言ってやった。
今回の震災がこれだけ被害が大きくなったのは、行政の悪い習慣による街づくりのせいであることは明らかだ。
必要のないところに必要のないものを建設し、産業構造の変化を語っても具体策のない岩手のリーダー。
気仙川に建設中だった津付ダムは今回のことで中止になるはず。仮設住宅や道路の復旧など、あらゆる面で作業員が必要な時に、ダムどころではあるまい。今まで一生懸命反対運動したのに、結局国や県に受け入れてもらえなかった陳述書は、神様の一言で「これは要らないよ。やめなさい。」と言って無くなった。なんともあっけないものだ。


これからの街づくりは、真に物の価値が分かる人間が行って欲しい。津波が危険だからと言って美しい自然の中に、おっきな堤防を作ったり、洪水が危険だからと言って安易にダムを造るような人間に街づくりはしてもらいたくない。
津波が危険なら、最低限津波が来ない場所にまず、街を作る。堤防云々はそのあとだ。
洪水が危険なら、住民を説得してまず、被害が予想される地域には住まないようにさせる。すでに住んでいる人には行政が補償して移転させてやる。
住民に自由に好きな場所に住まわせるのではなく、行政がしっかりリーダーシップをとり、美しいし自然と、住宅の景観のバランスを保ちながら新しい街づくリを行ってもらいたいものだ。
  


Posted by タンゴダンサー at 08:47Comments(0)松園第2病院

2011年04月20日

3月27日

この病室から見える朝の岩手山の景色が実に美しい。
朝食後ロビーに出ていつもの様にぼぉーっとテレビを見ていたら、公衆電話を使って話している人が居る。
「それ使えるんですか?」と聞いたら、何を言ってるんだろうこの人は、というような顔。
「使えますよ。お金も受話器を戻すと戻ってきますよ。」
えーーー!!
こりゃいかん!「のっこ電話かけるぞ!」
まず兄に、妹に、鹿児島の姉に、次に元従業員に、そして元従業員から知っている限りのお客さんの番号を聞き出し、一軒一軒掛ける。次に陸前高田の仮市庁舎に連絡して、罹災証明や今後の補償の見込みなどを聞きながら、ここでも情報を入手。市役所職員のうち3分の1が亡くなった。生き残った中にもお亡くなりになられた方にも友人やお客さんが沢山いる。

そうして、自分が生きていることをなるべく多くの人に知らせる自分回復の作業は、岩手日報の記者をやっている後輩に連絡が取れたことから急ピッチに進んだ。  


Posted by タンゴダンサー at 08:44Comments(0)松園第2病院

2011年04月20日

3月26日

料理がいきなりグレードアップした。
病院の規則で、付き添いで寝泊まりは出来なかったが、のっこの実家がここから徒歩で5分の位置だから、毎食時のたびに実家に戻る。そして戻るたびに食材を運んでくれる。
これはいかん。病院食もかなり充実しているのに、加えて毎食の度にしっかりと調理した料理が加わるものだから、震災以前より体重が増えた。

病室4階ロビーのテレビはほとんど他に見る人が居ないから一人で見たい放題だ。新聞は岩手日報のみだが、自由に見られる。陸前高田では仮設住宅の建設が始まったようだ。無名だった陸残高田が毎日キー局のニュースで取り上げられ、知名度は一気に全国区になった。

これまで自分が家も店も失い、こんなケガまでしたのはいかにも行政のせいのように話してきたが、最終的に自分を守るのは自分自身だ。新しい街に越してきたなら、街のつくりをよく見て、防災に対してよく考えた街づくりをしているか、よく観察する。防災に対する意識が薄い街には住まないほうが良い。どうしても住まなければならない場合は、あらゆる災害の可能性を総合的に判断して住む場所を決める。
避難訓練はどうしても形だけになりがちだ。災害が、今起こっても慌てないように常に自分の位置からの避難路、避難手順をシミュレーションしておく事が重要だ。  


Posted by タンゴダンサー at 06:52Comments(0)松園第2病院

2011年04月19日

3月25日

いよいよ転院の朝を迎えた。
朝食後、ベッドごと1階に運ばれ、タンカに移され救急車に乗せられた。
「約2時間を予定しています。途中気分が悪くなったら教えてください。」
消防署員は水沢署のチームだった。俺を移送したのち再び大船渡病院に戻るそうだ。
10分ごとに自動で血圧を測定し、こちらの状態が分かるように絶えず話しかけてくれる。
横に寝かせられた状態だったが、後ろのカーテンを開けてもらったので、2週間ぶりに街の景色を見ることができた。
住田の町を通った時、気仙川が見えた。そろそろヒカリが岩沢橋付近に溜まる時期だな。
この時期に釣りをしていない自分にとても違和感を覚える。
途中高速を使い、盛岡インターを下りるといよいよ盛岡の街が見えてきた。
給油するためにスタンドに列を作っている本物の光景も目にすることができた。

松園第2病院は院長が女性だ。そのほかのスタッフも皆親切そうだ。
その日の夕食で出たサバの味噌煮があまりにも旨くて感激した。  


Posted by タンゴダンサー at 22:29Comments(0)松園第2病院