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Posted by だてBLOG運営事務局 at

2011年04月19日

3月24日

ここを離れる前にどうしても高田の街を目に焼き付けておきたいというから。
「うん、俺は行けないけど、俺の分もしっかり見ておいで、もしかすると、これが見納めになるかもしれないから。」
ここから陸前高田まではさすがに歩いては行けない。車はないから、
ヒッチハイクで行くことになる。危険はないと思うが、最近新聞に出てる物騒なニュースもあるから、少し不安になった。
ナースステーションでペンを借り、A4ノートを横に2枚並べて貼り付け、表裏に『陸前高田』と『大船渡』と書いておく。
行きは病院を下りる坂の途中ですぐ掴まった。
高田一中の登り口で降ろしてもらい、まずはアパートを探す。周りの建物が何もなくなっているから位置関係だけでは探すのが難しい。それでも道路の上だけはガレキが取り払われているから、それをたどって何とかアパートの位置を探し当てた。材木やらなにやらがうづ高く積まれ、さらに上から泥がかぶっているから、とてもそこから引きずり出して何かを探せる状態じゃない。すぐに諦めがついた。

次は店のあった方向へ歩いた。乾いた風が砂埃を巻き上げ、顔に砂がバチバチあたって痛い。
建物が無いから直線距離で歩けるので海岸までがとても近く感じられる。
なんと国道45号線が海岸線になっている。地盤沈下もしただろうから、海岸線は2~3キロ奥まったかもしれない。
青く塗られた床。間違いないここが店のあった場所だ。基礎枠の隅にスカリーの200号が4個残っていた。
「よし、異常なし」
アパートも店もきれいさっぱり流されていて気持ちの整理がついた。しっかりと陸前高田市の見納めを終えることが来た。  


Posted by タンゴダンサー at 20:11Comments(0)大船渡病院

2011年04月19日

3月23日

手術したばかりのころは、「いつまでも居てくださっていいですよ。」
と言っていたのが、状況が急変したようだ。周りを見ていても、最近は患者さんの入れ替わりが激しくなってきた。
「術後の状態が安定しているので、もし、行ける場所があるなら移っていただきたいのですが。」
大変申し訳なさそうにお願いされて、こちらも恐縮してしまう。
もちろん、この状況だ。お医者さんも含めてすべての人が被災者だから仕方ない。
「そうですね。それでは盛岡の病院を紹介していただけますか?」
「分かりました。もし、調整出来たら、移っていただいて構いませんか?」
「分かりました。」
手配は早かった。25日に盛岡市の松園第2病院に転院が決まった。  


Posted by タンゴダンサー at 17:47Comments(0)大船渡病院

2011年04月19日

3月22日

今朝の新聞に各地の津波の高さが出ている。
陸前高田は19m。大船渡は綾里で23m、大槌町では津波が37,9mの高さまで上がったことが分かった。県内のその他の地域も軒並み20mを超える数字が記録されている。
と同時に気になったのは、同時に出ていた明治三陸大津波の記録でその時も綾里では38,2mの記録が残されていたことである。

今回の津波はあらゆる方面の解説者が口をそろえて『想定外』を口にするが、はっきりと記された記録で38,2mが出ているではないか。それでも尚、想定外を口にするのか。であるとするなら、過去の記録やデータから何も学ばれていないのではないか。

過去に38mが記録されたら、のりしろを取って50m位の津波を想定してよかろう。そうしたら堤防の高さは10mでいいのか?最低でも20m以上は必要だろう。そして強度は。今回の津波の経験から、各地の堤防がほとんど流されるか、あるいは破壊されていることを考えると、強度は無いに等しい。

田老町に『万里の長城』と呼ばれる堤防があったらしいが、行政や建設者は海外の主要な港にあるでっかい堤防をご覧になったことがあるのだろうか?高さは軽く20mを超え、その幅も田老町のそれなど、まるで比較にならない。まさに巨大な要塞とちょっとした水止め程度の差がある。
それでも尚、万里の長城を言い張るなら、井の中の蛙もいいところだ。  


Posted by タンゴダンサー at 17:14Comments(0)大船渡病院

2011年04月19日

3月21日

大船渡病院に居ることが知れ渡り、見舞いが増えてきた。
兄も妹もせっせと食べ物を運んでくれたので、
食材は一気に豊富になり、食べるのが追い付かないほど。
手術後は体力を回復したい所だから、これは本当にありがたい。
この頃には病院食も60%程度まで回復していたから、のっこに病院食を食べてもらい、
自分は菓子パンとカップラーメンばかり食べていたら、一気に脇腹の肉が回復した。

見舞いが来る度、自分が如何にして生還したかを繰り返し話しているうち、
やはリ皆が疑問に思うのが、どうして「3mの大津波警報と出たのだろう?」
どうして8mもある高田松原堤防があっさりと流されてしまったのだろう?ということ。
航空写真を見ると、高田松原堤防はどこかに移動したのではなく、気仙大橋と同様に見る影もなく消えてしまっている。おそらく、津波の到達速度をいくらかは遅くできただろうが、期待した効果はほとんど得られなかったというのが正直なところだろう。

そして堤防が取り払われた陸前高田の全体像を改めて見てみると、これほど平らな場所に街づくりが行われた欠陥が見えてくる。そう、もし、この町を一つの住宅として見るなら、これは明らかに『欠陥住宅』と言えるだろう。

街の指揮を執る市役所が海抜の高さとほとんど変わらない街の中心に据えられ、街を守る消防署はその脇。市民体育館やふれあいセンター、文化会館など主要な避難所もその近辺に集められていた。ここに集められた人は避難したと思い込み、無防備な状態で最期を迎えた。さぞ、無念だっただろう。ここの避難所に集まった人の中で生き残ったのはわずか。これは代々の行政の街づくりの明らかな欠陥である。

堤防もはたして効果があったのだろうか?全く効果が無かったとは言わない。しかし、跡形もなく流れ去ったことをかんがみるに、砂浜の地盤に対してしっかりした強さがあったのか?高さはあれで良かったのか?
疑問が残る。  


Posted by タンゴダンサー at 16:38Comments(0)大船渡病院

2011年04月19日

3月20日

今日はリアスホールや薬王堂に寄りながら、妹を探しに行ってくれるように頼んだ。
今日も兄がおにぎりとカップラーメンとお菓子と数冊の本をもって来てくれた。
毎日相当な距離を歩くから一杯汗をかくようで、ここに来ると必ず頭を洗っていく。
大船渡市内は電気が大分復旧したものの、水はまだほとんどの家庭で使えない。
ガスもまだで、携帯はAUがほとんど元の状態に戻ったものの、ドコモはまだ使えない。
今回の震災以来、ドコモからAUに変える人が増えるのではないだろうか。

現代は如何に進んでいるように思えても、震災が来れば電気は簡単に消えるし、通信もまったくできなくなる。こんな時の為に無線のシステムを確立しておくとかできないのか?


午後になってのっこちゃんが妹とその旦那、そしてたくさんの食糧と服を連れ帰ってきた。
妹のアパートは無事で、職場もいくらか物は落ちたもののほとんど無傷だった。
妹夫婦はコンビニを経営しているから忙しく、今日もこれから店を開けるのだそうだ。
電気が無いから危険なので、一人ずつ店内に入れ、商品が完売したら閉めきるそうだ。
「二人きりで大丈夫か?気をつけろよ」と声を掛けた。

大船渡の街は治安が悪化し、各地で火事場泥棒が発生しているらしい。
世界のメディアではいかに日本人が大震災に遭いながらも道徳的な行動をとっているかと絶賛しているらしいが、人間の中身は欧米人やそのほかの地域の人とそう変わらない。
ただ、日本文化は『恥の文化』。他人が見てる前では堂々とやらないからメディアに取り上げられる機会が少ないだけで、人が見てない場面では、こんな最悪の状況の中でも盗みはするし、それ以上のこともする。

治安の悪化は病院の中でも同じ。病院内のアナウンスでは繰り返し、身の回りの物に気を付けるように注意が払われた。のっこがせっかく一日がかりで洗濯した衣類は、共同物干し場に干していたばかりに一夜にして消えてなくなっていた。しかし、これはこちらが悪い。今のこの状況は南米に居るのと同じと考えるべきだろう。  


Posted by タンゴダンサー at 13:06Comments(0)大船渡病院

2011年04月19日

3月19日

明け方は注射が効いて少しの間うとうと出来たが、それが切れると再びジンジン痛み出した。
痛み止めを頼むと、今は少ないから我慢してくれと言う。

この頃には6階のロビーに行って高い場所から大船渡湾の様子を眺めながらテレビを見るのが日課になっている。やはり陸前高田は被害が大きいようだ。それに比べると大船渡はずっと被害が少ないようにも見える。病院から見える範囲ではほとんど壊れた家が見えず、北側に面した病室から見える五葉山とその麓の街並みがうっすらと雪をかぶった景色は吸い込まれるように美しく、絵心のない俺でも思わず絵を描こうかという気持ちにさせるほどだ。

昼には兄が見舞いに来て再会を喜んだ。前日に生きていると分かっていたが、やはり顔を見ると泣けてきた。避難所や友人の家をあちこち回りながら。食事を食べさせてもらっているそうだ。北小と南町公民館の避難所は比較的物資が豊富で、今日は牡蠣の入ったお汁が出たそうだ。おにぎりやパンは余るほど。お菓子はもうみんな飽きてしまって誰も手を付けないと言い、どっさりとお菓子を持ってきてくれた。
それを病室のみんなと分けた。
地震の日以来、毎日ずいぶんと歩くようになったから、自然にダイエットになって良い、すごく体が調子がいいんだ、と充実した表情だ。
何か欲しいものはないか、と聞かれ、本が読みたいと答えた。
  


Posted by タンゴダンサー at 13:01Comments(0)大船渡病院

2011年04月19日

3月18日

AUはもう、かなり繋がるらしい。連絡が取れる人は羨ましい。向かいの大友さんはAUだった。
しかし、父も兄も無事が確認できたし、妹のアパートは盛(さかり)町の奥の方だからきっと大丈夫だろう。
このころには朝、新聞を病室のみんなで回し読みするのが日課になっていた。
新聞は東海、岩手日報、毎日、スポニチの4紙が売店の前に置かれて自由に取って行っていいようになっていた。これはとても有難かった。毎日することのなかったいい暇つぶしになったし、何せ、今は情報が一番欲しい。一番の気がかりはやはり安否情報。知り合いがどこの避難所にいるか、だれが亡くなったか。
「まだ、高田一中に居ることになってるな。」避難者名簿には俺とのっこはまだ高田一中でに居ることになっている。早く消してくれないと、誰か訪ねて行ったら申し訳ない。

手術は午後2時から。前日の夜から食事制限があり、腹が減った。
望んでいた手術だが、やはり部分麻酔は嫌いだ。
生まれた時から斜頸で、子供のころから高校までの間に3回手術した。
いつも部分麻酔で、腰から脊髄に入れられる麻酔注射の気持ち悪い感覚はどうしても受け入れがたい。

今回もそれだった。その上、今回はさらに尿道にカテーテルを入れられた。
これは初めての体験だったが、これはもっと嫌だ。もう、それだけで手術が始まる前に気持ちが落ち込んだ。両足を持ち上げられ、妊婦さんのような格好で手術台に乗せられているつもりだったが、
これは麻酔が効いているための錯覚だったと後から分かった。

手術中に気分を和らげるため、何か好きな音楽をかけますが、「何がいいでしょうか?」
「では、タンゴはありますか?」
「タンゴですか?それは初めてだな。探してみます。」
「ああ、いいです。いいです。バリ音楽みたいな静かな水が流れるような音楽ありますか?」
「バリ音楽ですか?」
「あ、いえ、なんでもいいです。お任せします。」
きっとあるはず無いよな。言った自分が間違っていた。

手術は1時間50分で終了。ほぼ予定通り。
その後、経過観察の為、今夜だけ個室となった。
「のっこ、俺の脚今どうなってる?高く持ち上げられている気がするんだけど。」
「うん?まっすぐだよ。水平。」

麻酔が切れた後は大変だった。痛み止めの座薬がまったく効かず、一晩中唸っていた。明け方にモルヒネ注射を打ってもらいやっと落ち着いた。  


Posted by タンゴダンサー at 11:42Comments(0)大船渡病院

2011年04月19日

3月17日

このころから携帯はAUなら通じるという情報が広まった。
まあ、うちの場合流されてしまったから、関係ない。
新聞が毎朝回ってくるようにもなった。

日が経つにつれて、病室の人ともいろいろ話すようになった。
向かいの大友さんは酔仙酒造に勤めていて、地震発生時、酔仙の事務所から家へお母さんを迎えに行き、被災、二人とも波にのまれ、母の手を放してしまったことをとても悔やんでいた。
全身に流木が突き刺さり、毎日の処置では、傷口に入った砂がなかなか取れず、うめき声がとても苦しそう。

隣の金野さんは大石沖で豆腐屋さんを経営していて、やはり逃げ遅れて波にのまれ、ろっ骨を4本折った。
二人ともすごく近所に住んでいることが分かって驚いた。

もう一人、唐丹(とうに)の鈴木唐民さんは、とても個性的な人で、一旦は逃げたものの、どうしても津波が見たくてまた車で下りて行って、消防の人と一緒に津波が来るのを見ていたら、急に津波が自分達の立っている場所まで上がってきて、慌てて逃げたけど逃げきれずに骨盤骨折。ここの奥さんは同じように脇に寝泊まりしていたのだが、毎朝売店が開く前から並んで2~3品の食材を買うことを日課にしていた。実は午前8時くらいからは並ばなくても混雑無く、同じ商品が買えたのだが、せっかく一生懸命やっていることに水を差してもいけないと思い、黙っていた。唐民さんと奥さんのやり取りを聞いているととても可笑しくて、いつもみんなが楽しい気分にさせてもらった。
そんな4組での入院生活が続いた。
  


Posted by タンゴダンサー at 11:14Comments(0)大船渡病院

2011年04月19日

3月16日

家から持ってきた2枚の暑い毛布に加えて、自衛隊からも各自に1枚毛布の支給があった昨日は寝心地が良かったようだ。丁度退院していく人から銀マットも頂いて、次第にのっこちゃんのねぐらも快適になっていく。

「最初ね、まず家へ行ったら建物のがわは残ってるんだけど、中はすっかり流木が刺さってて全然入れないの。誰か居ませんかーって叫んだけど、応答なし。向かいの成田ガラスのおじちゃんが居て、ガラスの後片付けしていて、うちの人知りませんか?って聞いたら、たぶん、保健センターに居るはずだっていうからそっちに行ったら居なくて、名簿にも載ってなくて、北小に行ったら金ちゃんに会って上山の親戚のところに居るって言うからそこに行ったら会えた。はー、一杯歩いた。」
「よしよし、ご苦労さん。」
「お父さん、元気だったよ。居間に座って外眺めてて、最初私を見てもキョトンとして気づかなかったけど、《のっこだよ》って言ったら、おお、よく生きてたなって。それで、面白いんだよ。」
「どうしたの?」
「最初お父さん見たとき、嬉しくってわんわん泣いたら、勘違いしちゃって、そうか浩丸はダメだったかってお父さんも、お兄さんも、いいんだ、のっこ、仕方ないんだ。って」
「はー!」
「大丈夫、浩丸ちゃんは生きてるよ。大船渡病院に入院してるって教えてきた。」

  


Posted by タンゴダンサー at 09:50Comments(0)大船渡病院

2011年04月19日

3月15日

今朝の検診が終わるとすぐ1階に下りる。
大船渡の知り合いに会った。
「どうも。家残ってますか?うちの人何処にいるか分かりますか?」
「ああ、テレビで見たけど、サンゴは確か残ってたな。でも、波はかぶったはずだ。」
やっぱり、あそこまで来たか。きっと逃げたよな。兄貴のことだ、逃げたに違いない。

病室に戻ってくると
「のっこ。今日家見てきてくれないか?」
「うん、見てくる」
「ここから20分くらいだから。避難していたら北小に居るはず。」
おそらく45号線は通れないだろうから、山側の最短ルートを地図を描いて渡す。
「頼むぞ」
「うん、お父さん見つけてくるから」
「あと、もし家残ってたら、2階に上がって毛布持ってくるといい。」

今日はMRI検査の日。もちろん、初体験だ。検査時間は全部で20分と説明を受け、
足の方から台に上る。大型のロボットみたいな中に入っていった。
ビーービビ。ビーービービービー。なんか光線でも放たれそうな振動のある電子音。
最初の音は結構デカいな。頭がおかしくなりそうだ。

ようやく不快な電子音が終わり、ああ、やっと終わったと思ったら。
それから、「ミタイナ・ミタイナ・ミタイナ、・・・・・」と一定のリズムが始まった。
ええ!もしかして今から始まるのー?
目の前に赤色で点灯した数字はなんだろう?カウントダウンしているような。
「ミタイナ・ミタイナ・・」のベース音にメロディが加わった。
「スマッシュ、スマッシュ、スマッシュ・・・・」と聞こえる。
カウントがゼロに戻ると再びベース音だけになり、再びビービビーと始まった。
この高音を20分聞いてるのは結構きついな。
その後、メロディは「パンツ」から「ラット」に変わり、それぞれが3~5分程度。
20分ということはこれが5、6回程度で終わるだろうと思っていたら、そんなもんじゃない。
8回くらいだったかな。トータルで軽く30分は超えていたはずだ。

午後1時になってものっこは戻らない。出発してからもう4時間か。探してるな。
往復で40分だから、すんなり見つけられれば感動の再会話を入れてももうそろそろ戻っていいはず。

のっこが戻ったのはそれから2時間後の午後3時だった。
「どうだった?」
緊張しながら問いかける。どうか、最悪の返事はしないでくれ!
「居たよ。お父さんも、お兄さんも。」
毛布をベッドの脇に置いて、
「はー、暑い!疲れた」
「それで、何処に居たの?」
「親戚の家に居た。」

MRI検査の結果早急に手術をした方が良いという診断結果。しかし、問題があって、今は手術に必要な医療具が無いために医療具待ち状態で、医療具が整えばすぐにも手術ができるという説明。
高齢者ならそのまま何もしないのだけれど、若いからしっかり治しておいた方が後々のためにも良いとも言われた。
「是非、お願いします。」と答えた。
  


Posted by タンゴダンサー at 09:29Comments(0)大船渡病院

2011年04月19日

3月14日

3日目の夜が明けた。
今朝もまた、1階受付に下りてみる。連絡が全く取れない今となっては、誰か外から入ってくる知り合いを探すことが唯一の連絡手段。

アユ釣りの伊藤信平さんを見つけた。
「信平さーん!信平さーん!」聞こえないか。「のっこちゃん、行って呼んできて」

家を流されたために毎日飲んでいた薬を流されてしまったという。新聞を持っていたので、受付を待つ間読ませてもらった。お互いの無事は確認できたが、それ以上の情報は得られなかった。

その日の回診ではMRI検査の予約がやっと取れたという。昨日の話では、現在大変込み合っていて、予約をを取るのが難しい状況だと伝えられていただけに、これは朗報と言うべきだろう。

午後再びロビーに下りて誰かを探す。テレビを見ると、東大の地震研究室の人がまた出ていた。今回の津波は『想定外』の大きさだったことを繰り返している。そうか、そんなに大きかったか。こりゃ、何千じゃなく何万人死ぬかも・・・

その日の夜、3階のナースセンターから突然歓喜の声が湧き上がった。
「電気来た?電気来たんじゃない?」
「電気点きましたー!みなさん、電気点きましたよー!あー良かったー。電気来たー。」
また一歩前進。病室内に暖房が入り、のっこは少しだけ暖かく寝られただろう。  


Posted by タンゴダンサー at 08:33Comments(0)大船渡病院

2011年04月19日

3月13日

病院は6時起床。今朝も起床前からラジオを聴いている人が居る。
毎朝体温と血圧が測られ、一日が始まる。
「うわー、これひどいな。」声の主は向かいの病室のようだ。何かを見ているようだ。

車いすで1階に連れてってもらう。エレベータで下り総合受付ロビーにつながる渡り廊下にさしかかると、急に冷たい風が体を包む。
「うわっ1階さむっ!」
ロビーは半分に区切られ、特設の新患受付と、待合ロビーに分けられている。
自分の運ばれたルートをたどるため、ロビーを一周してもらう。
本来の受付前を通って病院入口に来たらとても寒いし、風が強い。
外に出てみるかと聞かれたが、やめにした。
入口のガラス窓には、病院に運ばれた患者の名前がトリアージの色別に分けられ貼ってある。
この寒い入口で新患の受付をするのはさぞ辛いだろうに。
さらに周って、今度は正面入り口からまっすぐ入ると、ここだ。
天井を見上げながら、2日前の夜にここに運ばれた夜のことを思い出す。
ここに間違いない。あの夜俺は最初この場所で処置を受けた。今は椅子が並べられ新患や通常に通っていた人の待合ロビーとなっている。みなテレビを食い入るように見ている。
大きな地震が発生すると必ず呼ばれる東大地震研究室の誰々だが、相変わらず素人でも分かりそうなことしか言わない。いっそのこと地震予知とか無理なんだから、そんなことに莫大な研究費を使うのはやめればいいのに。

地震予知ならのっこちゃんのほうがはるかに頼りになる。今回もこんな大きな津波までは予測しなかったけど、2日前、9日の地震があった後も耳鳴りが止まず。丁度プールに入って耳の中に水が入ったような状態が、まさに地震が来る瞬間まで続いたそうだ。地震が終わった後はすっかり通常に戻ったという。
今までも地震の大きさに限らず、同じような症状になった。ただし、今回は飛行機に乗った時みたいに完全に耳がふさがった状態で、耳鳴りが止まらず、耳鼻科に行こうか迷うほど、症状が重かったそうだ。
気圧の関係か何かは分からないが、何か科学では分からない何かがあるのかもしれない。
今回のことでさらに確信が強まった。次回は耳鳴りが始まったら、しばらくは海に近づかないようにし、いつでも避難できる態勢を整えておこう。

今度は奥へと進み、処置の後しばらく置かれた場所を探す。どうやら内科の待合ロビーだったようだ。
1階は寒すぎる。今日の探検はここまで。整形外科の3階に戻るとベットが結構空いている。一体どうして患者が運ばれてこないのだろう?その日の昼に初めて暖かいおかゆが出た。冷たいおかゆよりはいくらか味があった。缶詰らしき魚のおかずも出た。泣けてきた。  


Posted by タンゴダンサー at 06:46Comments(0)大船渡病院

2011年04月18日

3月12日

夜が明けた。長い1日が終わった。
早朝からラジオのニュースが聞こえてくる。「陸前高田は壊滅です。陸前高田は壊滅です。」聞きなれた加藤アナの声だ。
停電で病室内の電気は点かない。暖房も入らない部屋で、新聞紙1枚で床に寝たのっこはさぞ寒かっただろう。俺はぐっすり寝させてもらった。高田一中の体育館に居た人たちはどうやって夜を過ごしただろう・・

早朝はおしっこと血液検査。「すみません。朝は食事出ません。お昼は出せると思いますから。」
食欲は、そんなに無いから別にかまわない。喉も乾かない。それより、みんな心配してるだろうから、生きていると伝えたい。おやじと兄貴はちゃんと逃げたろうか? 
大船渡の45号線沿いにあるあの家まで津波は行ったろうか?1933年の三陸大津波の時は、丁度家の手前で止まったのだそうだが、今回はおそらく行っただろうな。きっと今までの津波とは比較にならない大きさじゃないか。おそらく何千人も死んだはずだ。
そして夜が明けた今日からは、病院がいよいよ戦場となるはずだ。

1階に運ばれ、レントゲン検査。
毎日9時から10時までが回診時間。
診断の結果、左足はものすごく腫れているが、骨に異常はなく、打撲。右足はレントゲンだけではわからないがおそらく靭帯が傷ついてるだろうという判断。後日MRI検査で最終診断をすると言われた。

昼食はレトルトパックに入った冷えたおかゆのみ。全く味は感じなかったが、無理やり流し込んだ。
体育館に居る人たちはまだ何も食べられず、途方に暮れているだろう。
夜も同じ食事だった。  


Posted by タンゴダンサー at 10:29Comments(0)大船渡病院

2011年04月18日

嵐の前の静けさ

誰かの付き添いで乗り込んだことはあるが、救急搬送されるのは生涯初めての体験だ。
途中、何度か血圧を測りながら、「大丈夫ですか?気分悪くないですか?」と声を掛けられる。
さらに、救急車の中でも、大船渡病院に着いてから再び引き返さなければならないかもしれない可能性について、さらに念を押された。
きっと、病院の中は今頃戦場と化しているだろう。ドラマで見た『救命救急24時』の世界がたやすく想像できた。血にまみれた患者の姿、遺族の泣き叫ぶ声、医師の怒鳴り声、スタッフ全員の走り回る姿、トリアージで分けられ、そのままコンクリートの上に寝かせられて病院の外に放置された遺体。

病院までのルートは、高田一中の東門から出たんだと思う。45号線は使えないからね。米崎(よねさき)町へ通じる道、希望ヶ丘病院、サンヴィレッジ高田の前を通って三陸道の入口に入り、北上して大船渡病院専用の連絡通路へ。

病院入口に到着。
救急車のドアが開く。寒いな。病院側が用意した車付のタンカに移され、女医が消防署員に状況を聞いている。
来た来た!トリアージだな。
トリアージは黒、赤、黄、緑色に分けられ、俺は黄色だった。重傷と軽傷の間といったところか。
「黄色はこちらに運んでください。」
何処に運ばれるんだろう?病院の中か?外か?仮設テントか?病院の外に患者の気配はないな。うめき声も聞こえない。

病院の中に入った。
目に見える範囲からでも、運ばれたのは受付のところだとすぐに分かった。
決して重傷と言えない俺に医者が6人もついて処理にあたってくれる。周りはやけに静かだ。他の患者が居る気配はない。イメージと大分違う。忙しく走り回る看護婦も、泣き叫ぶ遺族も、医者の怒鳴り声も、激しく動くものは何も無い。ただ静けさだけがこだまする。
両足をL型の添え木で固定され、奥へと運ばれた。

そこはさらに静かだった。
上から毛布を掛けられ、寒さが遮られると安心した。
「ここで暫く休んでな。あと、安心だからな。」
3年前、母を最期に看取ってくれた医師だった。
ここはどの辺りかな?どこかの科の診療待合ロビーかな?
暗くしてあるから周りがよく見えない。
天井の壁の模様を目で追う。今日はここで寝るのかな?十分に寝られそうな安心感と暖かさがあった。
そばにはのっこも居る。
「のっこもそのソファで寝るといいよ。」
安心したら急に尿意をもよおしてきた。腹も減ったな。
「ちょっとおしっこしたいんだけど」
「おしっこか。待ってろ、今尿瓶持ってくるからな」

「あ、妻にやらせるからいいで・・・」
そう言いかけたが、遮って
「いいから、恥ずかしくないから、誰でもするんだから」
陰茎を持たれ、尿瓶に入れられた。緊張のためか、寝ているせいか、なかなか出てこない。
「あれ、出ないな」
「いいぞ、ゆっくりでいいからな。」

助かったんだな。俺は。今初めて助かった実感がこみ上げてきた。ああ、運が良かったんだな。
生きてるんだな。

ベットの用意が出来て、そのまま入院となった。
ラッキー。
運ばれたのが比較的早かったからまだ空きがあったんだろう。4人部屋の暗い部屋へ運ばれ、タンカからベットへ移された。のっこはベッドの脇に新聞紙を引き、そのまま横になった。下のソファーの方が寝心地が良いんじゃないかと聞いたが、ここで寝ると言った。すまないな。俺がベッドに寝ているのに。代わってやりたいが、仕方ない。しかし、静かだな・・・明日、明るくなって被害の全貌が明らかになったらきっと戦場が始まるんだろうな。

  


Posted by タンゴダンサー at 08:29Comments(0)大船渡病院